坂網鴨猟の始まりは江戸時代
片野鴨池での坂網鴨猟の始まりは、江戸時代初期の元禄年間。犬公方として有名な5代将軍・徳川綱吉の時代だと言われています。
加賀藩の支藩である大聖寺藩10万石の藩士、村田源右衛門が海へ魚を獲りに行った帰り道のことでした。
片野鴨池の近く、のち「大坂」と呼ばれる場所までやって来た時、鴨の群れが突然飛んできました。源右衛門はそれを見て、とっさに手元にあったタモ網を空に投げ、1羽の鴨を捕まえたといいます。
これをきっかけに網の工夫に没頭して、ついに現在の坂網の形を考案。
他の藩士たちも、それを真似したことから坂網鴨猟が生まれたのだそうです。
ただ、このエピソードは始まりの時期はともかく、内容自体は単なる伝説だとも言われています。では、実際のところはどうだったのでしょうか。
坂網鴨猟は、福井からやってきた?
現在、坂網猟のような鴨の投げ網猟は、加賀市の片野鴨池と宮崎県の佐渡原にだけしか残っていません。そして、ラムサール条約登録湿地での有形民俗文化財となっているのは片野鴨池のみとなっています。
しかし改めて調べると、投げ網猟は佐渡原のほか、鹿児島、新潟、兵庫、福井など全国的に行われていたことがわかります。とくに大聖寺藩の隣、福井藩では坂鳥打という技法があって、その始まりは福井藩初代藩主・松平秀康の時だとの史料があります。
そのため、実際は福井藩から坂網猟の技法が伝わってきたのではないかと考えられています。
初期の坂網鴨猟は、武士ではなく猟師が行っていた
片野鴨池の坂網鴨猟について記された古文書で、もっとも古いものが『一蓬君日記』という史料にある元禄9(1697)年の記事です。
大聖寺藩士の野尻与左衛門と宮部新五兵衛が、片野浜へ遊びに行った帰り道で、坂鳥網を見かけた。その時、猟師はマガモのメスを捕まえた。
というのです。
坂網鴨猟は、武士の鍛錬として武士だけが行なっていたものと言われますが、元禄9年の段階では坂網鴨猟をやっていたのは、武士ではなく猟師だったのです。
そもそも鴨猟自体は、柴山潟での流しもち猟などが江戸時代を通して広く行われていました。そして、それらの鴨は魚市場の問屋を通じて販売され、お城にも献上されていたのです。
武士の鍛錬としての鳥猟と、生類憐みの令
江戸時代は初代将軍の徳川家康が鷹狩を好んだこともあって、武士の鍛錬としての鳥猟は広く行われました。
大聖寺藩の本家の加賀藩でも、藩主が鷹場と呼ばれる禁猟区を設定して鷹狩を行なっていましたし、加賀藩士たちは「鳥構え」と呼ばれる、カスミ網のような仕掛け網猟を鍛錬として行なっていました。ほか、鮎釣りなども武士の鍛錬として行われたことは有名です。
しかし、5代将軍・徳川綱吉が生類憐みの令を発布したことで、元禄年間は武士の鍛錬としての鷹狩は控えられるようになります。
多くの藩が将軍から与えられていた鷹狩用の鷹場を返上し、加賀藩も相模国(現在の神奈川県の一部)にあった鷹場を返上することになりました。
また、綱吉は千駄ヶ谷村(現在の渋谷区)と中野(現在の中野区)に巨大な犬小屋を建設して、江戸中の犬を保護しましたが、この時に千駄ヶ谷村の犬小屋を建設したのが大聖寺藩です。
厳しく取り締まられた関東地方と違って、加賀藩や大聖寺藩内ではすぐに鷹狩や鳥猟が禁止された訳ではありませんが、武士の鍛錬として坂網猟が積極的に行われるような時期ではなかったと考えられるのです。
ではなぜ元禄年間に、武士による坂網鴨猟が行われたことになったのでしょうか。
それは明治時代以降、坂網鴨猟の歴史を調べる過程で村田源右衛門という、70石取りの大聖寺藩士を発見したことから始まったようです。
そもそも、大聖寺藩士・村田源右衛門ってどんな人?
『秘要雑集』という、大聖寺藩の様々なエピソードが記された本があります。
これによると、村田源右衛門はかなり変わった人だったようです。
- 狐を捕まえるために自分の気配を消すことを工夫し、毎晩7・8匹の狐を捕まえた。
- お兄さんが槍の名人だったが、槍なんて役に立たないと言って稽古をしなかった。なのに、お兄さんの弟子と試合をしたら、全戦全勝だった。
- 屋敷の縁側に飛んできたスズメを手で捕まえた。
- 空を飛ぶ鴨をジャンプして捕まえた。
このように、様々な逸話が残っている村田源右衛門ですが、最後のエピソードがポイントです。おそらく、この空を飛ぶ鴨をジャンプして捕まえたという記事から、坂網鴨猟のルーツだったのではないかと考えられたのだと思われるのです。
8代将軍・徳川吉宗が鷹狩を復活。大聖寺藩士による坂網鴨猟も盛んに
生類憐みの令は、徳川綱吉の死後すぐに廃止されました。
そして、改めて鳥猟が武士の鍛錬として見直されるようになったのは、
8代将徳川吉宗の時代です。
徳川吉宗は「鷹将軍」と呼ばれるほど、鷹狩を愛した将軍でした。平和な時代が続き、武士が武芸に疎くなっているため、「治世に乱をわすれず」の思いからの鷹狩の復活でした。
大聖寺藩士が坂網鴨猟を行なったもっとも古い記録も、そのあたりの時期のものになります。『秘要雑集』という史料に、大聖寺藩家老の山崎清記と藩士の酒井庄八の家来が、2人並んで鴨猟を行なった記事があります。
その後、坂網鴨猟は文化年間にもっとも盛んに行われ、坂網猟の決まりごとも整備されていきました。
大聖寺藩12代藩主の前田利義は、とくに坂網鴨猟を好んだといわれ、一夜で7・8羽を獲ったこともあったといいます
まさに、武士の鍛錬としての坂網鴨猟の時代がやってきたのです。
参考文献
- 『片野鴨池と坂網猟』(加賀市片野鴨池坂網猟保存会、2001年)
- 『坂網猟に係る民俗文化基礎調査報告書』(加賀市片野鴨池坂網猟保存会、2016年)
- 『秘要雑集』(石川県図書館協會、1932年)
- 『石川県江沼郡誌』(江沼郡役所、1925年)
- 『大聖寺藩史』(大聖寺藩史編纂會、1937年)
- 山口隆治『大聖寺藩産業史の研究』(桂書房、2000年)
- 塚本学『生類をめぐる政治』(平凡社、1993年)
- 岡崎寛徳「生類憐みの令とその後」(『人と動物の日本史2』吉川弘文館、2009年)
- 根崎光男『犬と鷹の江戸時代』(吉川弘文館、2016年)