江戸時代、大聖寺藩士たちの坂網鴨猟

2020年11月18日
更新回数:3回

片野鴨池での坂網鴨猟は、5代将軍徳川綱吉の時代にあたる元禄年間には行われていたようです。まだこの時期は武士ではなく、猟師が行うものでした。

しかし、8代将軍徳川吉宗が活躍した享保年間ごろには、広く大聖寺藩の武士の鍛錬として行われるようになります。

そして、殺生を好まなかった一部の藩主を除き、藩主本人も坂網鴨猟を行いました。

とくに坂網鴨猟を好んだと言われているのは、12代藩主の前田利義です。彼は参勤交代で江戸から地元に戻ってきたときは、必ず「大三明坂」の「三助場」と呼ばれる場所で坂網鴨猟を行い、一晩で7・8羽の鴨を獲ったこともあると伝わっています。

藩主は坂網鴨猟のあと、いくさの首実験のように藩士たちの獲った鴨を並べて、その戦果を称えたそうです。

また、大聖寺藩は毎年12月に、初鴨5つがい(10羽)を江戸幕府に献上していました。

享保年間の大聖寺藩士たちの坂網鴨猟

鍛錬としての坂網鴨猟を行なっていたことがわかる最も古い記録も、ちょうど享保年間ごろの出来事として記されています。

大聖寺藩家老の山崎清記と、同じく藩士の酒井庄八の家来が、隣同士で坂網鴨猟を行なっていたところ、鴨の二重打ちになり言い争いになったというものです。
まるで「釣りバカ日誌」のハマちゃんとスーさんのように、身分関係なしに坂網鴨猟が行われていたのです。

しかし、この事件から、さすがに藩の家老と藩士の家来が並んで猟をするのは、いかがなものかとなったため、家老だけの猟場が設定されるようになりました。
また、馬に乗ることが許されていない「徒(かち)」以下の身分の藩士が、坂網鴨猟を行うことは禁止されてしまいました。

江戸時代の「坂場」

写真:「坂網猟 人と自然の付き合い方を考える」より

坂網鴨猟の猟場のことを「坂場」とよびます。
「坂場」には、それぞれ「○○坂」と名前がつけられていました。

そして、それぞれの「坂場」に、「構え場」と呼ばれる1人分のスペースが設定されました。坂網鴨猟がもっとも盛んだった頃は、この「坂場」が161ヶ所、「構え場」は670あまりあったと言われます。

もっとも良い場所は「大三明坂」「油木坂」「新坂」の3ヶ所で、「油木坂」は今でも「親場」と言って、もっとも鴨が取れる場所とされています。この3ヶ所は藩主のための「坂場」だったので「御場」と呼ばれました。

2番目に良い場所は「鷹歩坂」「筋違坂」「四重坂」「大割坂」で、家老や上級藩士の坂場に設定されました。「大割坂」は現在でも「親場」だと言われています。

そして、それ以外が平士と呼ばれる馬に乗ることを許された藩士の「坂場」です。

「坂場」はくじで決められた

写真:「坂網猟 人と自然の付き合い方を考える」より

大聖寺藩士の笠間享の日記によると、平士たちの「坂場」はくじ引きで決められ、くじ引きは上福田町の春日神社で行われました。元々、くじは4月の最終日に行われていましたが、寛政3年(1791)から、猟期直前の8月最終日に行われるようになりました。

現在、「坂場」内の「構え場」は、左の「カタ」から1番、2番と番号がつけられ、毎日隣にずれていくルールになっていますが、天明8年(1788)1月の記録を見ると、「十九日中坂二番」、「廿日中坂三番」などと書かれており、江戸時代から同じルールだったことがわかります。

また何回か、別の藩士の場所を借りて坂網鴨猟を行なったことが記されており、藩士の間では、「坂場」の貸し借りも行われていたことがわかります。

坂網鴨猟の費用と片野鴨池の管理

坂網鴨猟を行う藩士は、運上金を藩に支払いました。

文政年間(1818~1830)には、銀962匁(現在価値で約480万円)が、年間の藩の収入として記録されています。藩は河廻方という役職を設置して、鴨を驚かすようなことがないように片野鴨池の巡回をさせたほか、別の係の者には「坂場」近くの樹木が育って猟の邪魔にならないように、伐採や枝打ちをさせました。

また藩士の鴨猟のために、鴨を獲ることが禁じられた片野村の農民に対しては、鴨の食害の迷惑料の支払いと年貢の減税が行われていたそうです。

武士はどれくらい坂網鴨猟に行っていた?

坂場で捕まえる鴨の種類は、マガモのほかコガモ、オナガガモなど10種類以上にわたり、猟期は基本的に9月から翌年の4月までとされていました。

大聖寺藩の藩士は、12・3歳になると必ず坂網鴨猟に出て、初猟の獲物は敵の一番首を取ったかのようにお祝いし、料理を親戚にまで分配したそうです。

では実際に大聖寺藩士たちは、どれくらい坂網鴨猟をしていたのでしょうか。

藩士の笠間享の日記によると、天明8年(1788)の1月は中坂に9回、翌年10月は猿子坂に同じく9回、寛政2年(1790)には9月に15回、10月に9回も通っていますが、あとは月に2・3回といった頻度でした。

同じく清水長裕の日記を見ると、多いときで月に7回は坂網鴨猟に行っていました。

藩主の前田利義は一晩で7・8羽獲ったとも言われますが、彼らの記録を見ると、普通の藩士たちの1晩の成果は1・2羽くらいだったようです。

江戸時代は武士の鍛錬として広く行われた坂網鴨猟ですが、明治維新を迎えると身分制度がなくなり、誰でも坂網鴨猟ができるようになりました。

すると、「坂場」の取り合いが起こるようになり、明治10年に江沼郡捕鴨組合が結成されました。ここからまた、新たな坂網鴨猟の歴史が始まったのです。

参考文献

  • 『片野鴨池と坂網猟』(加賀市片野鴨池坂網猟保存会、2001年)
  • 『坂網猟に係る民俗文化基礎調査報告書』(加賀市片野鴨池坂網猟保存会、2016年)
  • 『石川県江沼郡誌』(江沼郡役所、1925年)
  • 『大聖寺藩史』(大聖寺藩史編纂會、1937年)
  • 『加賀市史料(7)』(加賀市立図書館、1987年)
  • 『加賀市史料(9)』(加賀市立図書館、1989年)
  • 牧野隆信『歴史探究―加賀・江沼』(橋本確文堂、1994年)
  • 山口隆治『シリーズ藩物語 大聖寺藩』(現代書館、2020年)